平城寿プロフィール
平城 寿 Hirajo Hisashi
1976年宮崎県生まれ・現メルボルン在住/九州大学工学部卒(1999年)
@SOHO創業者/『ITエンジニアのための「人生戦略の」教科書』(マイナビ出版)著者
日本最大級(会員約28万人)のビジネスマッチングサイト『@SOHO』の開発者であり創業者。
大学卒業後、内定をすべて辞退し、塾の経営や広告代理店事業など、半年間起業の道を模索するも、結局何もできずに断念。
全財産が10万円を切ったため、仕方なくおとなしく就職する道を選択。
消去法で福岡のIT企業に就職し在職中にショッピングカートのレンタルシステムをヒットさせ1年半後に24歳で1度目の独立を果たす。
フリーランスのITエンジニアとして活動しつつベンチャー企業のCTOを兼任。大規模システムの経験を積むため26歳で アクセンチュアに就職し 3年間トップ5%の評価を維持する。
在職中に『@SOHO』を立ち上げ、軌道に乗せて29歳で2度目の独立を果たす。ITエンジニアの独立起業をサポートする 『スーパーエンジニア養成講座』を開講。2万人のメールマガジン読者にアドバイスを行う。
「読んでいるだけで年収1,000万達成しました!」という人が続出。
これが出版関係者の目に留まり、出版に至る。
その後活動の場を海外に広げ、海外でのノマドスタイルを確立し2011年により 『海外ノマド』という言葉を自ら定義し啓蒙活動を行う。今では当たり前となった海外のマドというライフスタイルの立役者となる。
5年かけて自分のビジネスを完全オンライン化し、世界中のどこにいても生活できるような状況を実現。
2018年よりオーストラリアのメルボルンに拠点を移し、引き続き個人が活躍できる環境づくりやサポートに注力している。
– 略歴 –
2000年(24歳)
1人で開発したショッピングカートのレンタルサービスが1万社に導入され、現在流通総額500億円以上の規模に成長。
2004年(27歳)
1人で開発したビジネスマッチングサイト『@SOHO』は4年で国内No.1の会員数となる。(現在28万人)
@SOHO:https://www.atsoho.com/
2010年(34歳)
ITビジネスで築いた原資をもとに、個人投資家としての活動を開始。
香港、マカオ、マレーシア、シンガポール、フィリピン、タイ、コソボなど7カ国でビジネス・投資活動を行い、日本法人3社、海外法人5社のオーナーとなる。
ITを徹底的に駆使して世界中どこにいても仕事ができる体制を構築し、このライフスタイルを『海外ノマド』と命名。
2012年(36歳)
正式に海外居住者となり『北極ノマド』を達成。
『雇われ人間を創らない』をポリシーとし、正社員は一切雇わず、全て『パートナーシップ制』で11の事業を展開中。
これを『ノマド式経営』と名付ける。
エンジニアが独立して成功するためのノウハウを提供する『スーパーエンジニア養成講座』を開始。2万人以上のエンジニアにメール/セミナー/Skype相談等でのアドバイスを行う。
2013年(37歳)
海外で活躍できる仲間を増やすために、『海外ノマド倶楽部』をスタート。
業種に関係なく、Facebook発の自己ブランディングによってビジネスを構築していく方法を独自に開発し、『平城式facebook』として提供開始。
<生い立ち>
高校まで宮崎県で育ち、常に学級委員長や生徒会長を務めるなど活発に活動していた。中学、高校通じてバレーボール部の主将。
大学進学と同時に福岡県へ移住。卒業して1年半で務めていたIT企業を辞め、独立して上京。今に至る。
– 平城寿の人生年表 –
1999年
22歳~23歳
[就職浪人時代]
- 九州大学工学部知能機械工学科を卒業
- 会社の内定を断って最初から起業の道を模索する
- インターネットの広告代理店の権利を買うために80万円、『成功哲学』の高額教材を買うために120万円、いきなり合計200万円近くのビジネスローンを抱える
2000年
23歳~24歳
[第一次会社員時代]
- 全財産が10万円を切ったため素直に就職することを決意し、第二新卒として地元福岡 のIT企業に就職。当時の目標は「500万円貯蓄してシリコンバレーで起業する」だった
- 「なるべく早く独立したい」と、副業で開発したショッピングカートが大ヒットするも、ビジネスパートナーから一方的に追い出される
- 200万円の借金は完済し、逆に300万円の貯金ができる
2001年
24歳~ ステージ 2
[第一次独立時代]
- インターネット上で知り合ったF社長がきっかけで、1 年半で会社を辞めて上京する
- フリーランスのITエンジニアとしてシステム開発の仕事を受託しながら、F社長の仕事
をCTOとして手伝うも、F社長とうまが合わず 1 年で離脱 - 幼なじみとその友人と 3 人で会社を起ち上げるも、わずか 1 か 月で喧嘩別れとなる
- 2001年11月にラスベガスで開催された当時世界最大のコンピュータ展示会
『COMDEX』に単身視察に行く - 当時フリーランスとして受託していた仕事は 1 か月以内に終わるような20万円以下の
仕事で、常に 2 か 月先の仕事の不安があった - 誰にも会わず 1 日中家にこもって仕事をしていたので、ある日ふと「しゃべれなくな
っている自分」に気づき、さすがにヤバイと感じる
2002年
25歳~ ステージ 1
[派遣社員時代]
- 半年~ 1 年スパンの仕事をしたいと思い、派遣社員として製薬会社に勤務する。 そこで出会った上司に、「君みたいな若いエンジニアは、一度大規模なシステムを 扱える会社で正社員として働いたほうがいい」と指南され、「30歳までに再び独立 する」と胸に近い、もう一度だけ就職することにする
- アクセンチュア・テクノロジー・ソリューションズに就職
2004年
27歳~ ステージ 2
[第二次会社員時代]
- 本業にも全力で打ち込み、3年連続上位5%以内の評価を維持
- 同僚の8割が何らかの体調不良を訴えるなか、本人だけは元気でピンピンしていた
- アクセンチュア2年目に副業でビジネスマッチングサイト『@SOHO』を創業
- 会社が激務で平日は全く時間が取れなかったので、土日だけで3ヶ月かけて開発
2006~2010年
29歳~33歳 ステージ 3
[第二次独立起業時代]
- 入社して 3 年目に貯蓄を800万円作り、副業である『@SOHO』からの収入が月額20万 円を超えたことをきっかけに2度目の独立を果たす
- 独立直後に妻と出会い、 2 か月の交際でプロポーズ。スピード結婚
- 受託案件のシステム開発と、自社ビジネスの『@SOHO』、2 つの事業を柱として、独立後初月から月収 100 万円を超え、年収は 1 年目に 2 倍、2 年目に 5 倍と、倍々ゲームのように増えていく
- 『@SOHO』は創業 4 年後に国内 No.1 の会員規模に成長
2010年
33歳~
- 独立して成功できる IT エンジニアを育成するメールマガジン『スーパーエンジニア養 成講座』を開始。2 万人以上の読者に、メール/セミナー/ Skype 相談を中心とした アドバイスを行う
- 日本でのビジネスが一段落したことをきっかけに、海外での資産運用を開始
- 海外を何度か訪問しているうちに、「世界中を旅しながら仕事ができたら」と強く思うようになる
- 2 年かけてビジネスを再構築し、世界中のどこにいてもビジネスが継続できるスタイルを確立し、自ら『海外ノマド』という言葉を定義
2012年
35歳~
- 月の半分以上を海外で過ごすようになり、国外転出届を出して海外居住者となる
- 2012 年 4 月、民間人が住む世界最北端の町、ノルウェー北部に位置するスバールバル諸島の町、ロングイエールビーンにて「北極ノマド」達成
2013年
36歳~
- 海外ノマドというライフスタイルを広め、実現できる人を増やすために『海外ノマド 倶楽部』を設立
- IT エンジニア以外の人からの起業相談も増えてきたため、どんな業種にも適用可能 な Facebook で情報発信を行いビジネスを構築するノウハウを伝える講座『平城式 Facebook』を開講
2016年
39歳~
- Facebook 上で球空間を加速させるためのコミュニティー「成幸村」を正式スタート
- 残りの人生は、「価値のある情報を伝えること」と「価値のあるビジネスを生み出すこ
と」の 2 つに集中し、1好きな場所で(=場所の自由)2好きな時間に(=時間の自由) 3好きな仕事を(=仕事の自由)4好きな人と(=仲間の自由)5好きな人に(=顧 客の自由)の 5 つの Like を実現するための「5Like Method」を広めていくことを決意
2018年
41歳~
- メルボルンに拠点を移し、英語圏で本格的に活動を開始し、英語圏の最新マーケティング情報を日本の方々に伝える
- 日本人が世界で活躍できる舞台を作るために、@SOHOの海外展開を本格的に開始
– エピソード –
就職活動はことごとく敗退。そして雑誌『アントレ』との出会い
男がまだ就職活動の真っ只中だった時のこと。ある日、ふとコンビニに立ち寄ると、リクルート社が発行していた『アントレ』という雑誌が目に入った。
この雑誌には起業情報が満載されていて、まだ一度も自分でビジネスを立ち上げたことのない男にとって、わくわくするような未知の話が盛り沢山だった。
君はもう、うちの大学の生徒じゃないじゃないか。
時は1999年の3月下旬。そろそろ桜が咲こうかという頃。男は大学の馴染みの研究室に入り、PCで調べ物をしていた。
ちょうど大学を卒業したばかりだが、就職先は決まっていない。
モラトリアム〜最も堕落していた過去〜
大学時代から住み続けていた築30年以上は経過しているであろう、福岡の筥松の家賃3万6千円の安アパートに寝転んで、木の板を張り合わせて作られた天井を眺めながら男は考えていた。
男3人兄弟で、3人とも大学に進学していたため、親としては最もお金がかかる時期。
「一度も雇われなかった男」という称号
『一度も雇われなかった男ー。』
この響きに憧れ、その称号を手にしたかった男。
もう大学は卒業してしまったため、『学生起業家』の称号は手に入れることができない。
男はある日、ある説明会の情報を入手した。
100万円のノートPC
男が大学で所属していたのは工学部の機械系学科というところで、自動車のエンジンの構造などを学ぶのがメインだった。
九州の片田舎で生まれ育ち、当然ながら大学の下見に行く余裕もなく、高校の担任や進路指導担当教員も、偏差値を上げることばかりに躍起になり、生徒の個々の個性や興味をを活かした進路相談に乗れるほどの人生経験も無く、ただ単に理系だったから、偏差値で行けそうだったから、という理由だけで決めたのだった。
君はおとなしく就職したほうがいい。
100万円のビジネスローンを組んで参加した代理店ビジネスを僅か1ヶ月で撤退した男。
学生時代から続けていた家庭教師のアルバイトでなんとか食いつないでいたものの、男の全財産は20万円程度。
上京するには元手となるお金も足りない。
福岡で参加できる異業種交流会を必死で探し、50代の経営者が主宰する異業種交流会を発見。
男の第二次就職活動(はじめての就職)
男は30代社長の助言に従い、『一度も雇われなかった男』の称号を諦め、一度就職することにした。
書店に言って就職雑誌を買い、求人情報に目を通していく。といっても、まだまだ『世界を動かすような事業をやってみたい!』という思いを捨てきれず、なるべく事業の立ち上げに関われるような仕事を探していた。
男の第二次就職活動(肉体労働篇)
男の初めての就職は、わずか1週間で幕を閉じることになった。
学生時代から続けていた 家庭教師のアルバイトは時給3,000円〜4,000円と 割が良かったけれど、 長くできるものではないと思っていたので、 それ以上増やすことはしなかった。
生活費を捻出するため、 繋ぎのアルバイトを探すことにした。